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アメリカの人種差別と闘ったビートルズ
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アメリカの人種差別と闘ったビートルズ

ビートルズが活躍した1960年代アメリカでは、人種差別が根強く残っていました。

しかしビートルズは、それに敢然と立ち向かったのです。

今回は、このことについてお話しします。

アメリカにおける人種差別の歴史

19世紀、アメリカ南部では綿花の栽培が盛んで、アフリカ系アメリカ人を奴隷として多数買い入れ、広大な平野を農地として開拓させるとともに、農業の働き手として経済を支えていました。

アフリカ系アメリカ人は人間ではなく、単なる労働力としか認知されなかったため、彼らに対する差別を強めることとなりました。

その悪しき伝統は徐々に緩和されていきましたが、150年経ってもまだまだ根強く残っていました。

公共の場所では、白人とアフリカ系アメリカ人とのテリトリーははっきりと区別され、公共交通機関や公衆トイレなどは完全に分離されていました。

公民権運動

1950年代から60年代にかけて、アフリカ系住民がキング牧師などを中心として公民権運動を活発に行うようになりました。

1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は、終わりを告げることになりました。

しかし、法律が制定されたとはいうものの、市民生活に対する改善はあまり進みませんでした。

150年も続いてきた悪しき伝統が、そう簡単に覆りはしなかったのです。

特に、アメリカのディープ・サウス(最南部)は、最も人種差別が激しい地域でした。

人種差別に公然と反対したビートルズ

そして、ビートルズが初めてアメリカを訪れた1964年は、まさに公民権法が成立したばかりでした。

ビートルズは、1964年の夏の終わりに行われた本格的なアメリカ・ツアーでディープ・サウスを訪れ、そこでメンバーは、初めて人種差別の実態を目の当たりにしました。

4人は大きなショックを受け、敢然と人種差別に反対する立場を取りました。

最初の会場は、1964年9月11日、フロリダ州のジャクソンビルのゲイターボウルでした。

彼らは、コンサートに先立って行われた記者会見で、主催者が観客席を白人と有色人種とで左右に隔離する方針であることにはっきりと反対の意思を表明し、「人種差別なんてばかげている。観客席の隔離を止めないのなら、コンサートはやらない」と宣言したのです。

ブライアンは困って俯いていました。

「政治と宗教の話はするな」と常日頃から彼らには口止めしていたんです。

もっとも、出演契約には明確に「観客席が隔離された観客の前では演奏しない」と記載されていました。

ビートルズは命を懸けて闘った

しかし、ビートルズは、単に言葉だけで批判するに留めず、コンサートをやらないとまで宣言したのです。

ケネディ大統領が南部のテキサス州ダラスで暗殺されたのは、1963年11月22日でした。

それからまだ1年も経っていなかったんです。

アメリカの人種差別を撤廃させようと活動していた運動家が3人遺体で発見されました。

明らかに人種差別主義者による犯行です。

ビートルズの行為は、本当に危険な賭けでした。

アメリカ人の多くが銃を所持していました。

彼らがその気になれば、コンサート中に彼らを射殺することは簡単だったでしょう。

今と違って、アーティストのセキュリティーなどまったく無視されていました。

彼らは、まったく無防備の状態でステージに立っていたのです。

それがどれほど危険な行為であったか、今想像しただけでもゾッとします。

しかし、それでも、彼らは、勇気を奮って行動で示しました。

その結果、ついに主催者も折れ、観客席の隔離を止めたのです。

アメリカの歴史を変えたビートルズ

当時、15歳の少女だった歴史研究家のキティー・オリヴァーは、コンサート会場が隔離されず、人種に関係なく座席に座れたことが信じられなかったと語っています。

肌の色なんて関係ないんだ。

私たちも人間なんだと初めて実感した。

また、リンゴ・スターも当時を回想してこう語っています。

僕たちは、みんなの前で演奏するんだ。

あの人たちのためとか、その人たちのためじゃない。みんなに聴いてもらうんだ。

ビートルズがアメリカの人種差別撤廃に大きく貢献した歴史的瞬間でした。

これ以降、南部で開催された彼らのコンサート会場では、人種で観客席が隔離されることは無くなったのです。

ポール・マッカートニーの活動

1968年、ポールは、「ブラックバード」という曲を制作しました。

ブラックバードは、ヨーロッパなどに広く生息しているクロウタドリという名のツグミの一種ですが、この曲ではアフリカ系アメリカ人の女性のことを象徴しています。

ポールは、歌詞に関してこう語っています。

私がこの曲でテーマにしたのは、鳥ではなくアフリカ系アメリカ人の女性だ。

その頃は、アメリカで公民権運動が盛んに行われていた時代だったので、私も含めて多くの人たちがとても関心を寄せていた。

私は、アメリカで人種差別問題を経験したことから、アフリカ系アメリカ人の女性を応援するためにこの曲を作った。

私は、彼女たちに、努力を続けなさい、信念をもって、希望はあるからと勇気づけたのだ。

私は、歌詞の中で象徴的なものを使うことがよくあるが、『リトルロックに住んでいるアフリカ系アメリカ人女性』とダイレクトに表現するよりも、ブラックバードという形で象徴的に表現したので、人種差別というセンシティブな問題を扱うことができた。

「リトルロック」とは、1957年にリトルロック・セントラル高校で起きた事件で、アフリカ系の高校生の登校を阻止しようとする白人が高校を阻止しようと取り囲み、州兵や軍隊が出動するという大きな騒動となりました。

それでも、勇気を奮って9人のアフリカ系アメリカ人の高校生が登校したのです。

彼は、ソロでの「Driving・USA」ツアーで、ファンに対し「bird」という言葉が「girl」を意味するイギリスの俗語であり、実際にはアフリカ系アメリカ人女性について歌った曲だと打ち明けました。

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