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日本の音楽教育は間違っている、なぜなら…
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日本の音楽教育は間違っている、なぜなら…

サッカー日本代表のジーコ元監督の電話相談で子どもたちに対しての回答に、音楽教育のあり方についても通じる内容があったので日本の音楽教育についての考えをまとめてみました。

ジーコ元監督から子どもたちへのメッセージ

先日、はてなBlogで話題になった記事があった。

ジーコおじさんの子ども電話相談室:Jリーグ.jp

この記事は、元日本代表チームの監督、ジーコ (Zico) ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラが、小学生や大人(2名)に対して、電話相談で、質問者の疑問に答える内容なのだが、まず全ての子どもに対して、彼は以下の引用に似たようなニュアンスのような答えを言う。

サッカーを大好きになって、サッカーを愛してますっていうくらいに、サッカーで遊んでください。

要するに、一般論でよく聞く、物事を楽しめという、クリシェを強調していた。

言い古された考え、誰もがそう思うだろう。

しかし、これは今に限らず、日本の音楽教育の仕方という概念に反する考えに近い。

これに反論する正当性のある例はあるのか?と訊かれれば、自信を持って、首を縦に振ることはできないけども、私の体験談から、例になりうるこんな出来事があった。

音楽教育=音楽を楽しむことを教えるということではない現実

私は、アメリカの大学の音楽心理学の研究機関で、絶対音感を持つ被験者として、実験に参加する機会があるのだが、興味深いことに、ある限定されたエリアに、この絶対音感を持つ人間は多いと、直接研究者の方から聞いたことがある。

それは何処かというと、日本と中国である。

であるから、研究者らは、人種と絶対音感の相関を洗いざらいして、生物学的な関連性を導き出そうとも試みているが、やはり、文化的な意味での日本や中国のピアノと音楽教育の普及が、絶対音感保持者の急上昇に寄与したのではないかと思われる。

その、「文化的な影響」を日本の例で例えるならば、高度経済成長期に日本国民が消費に快楽を感じ始めた時で、ピアノという楽器がその豊かさのシンボルだったのではないかと考えられる。

その彼らの消費行動から起因するピアノの音楽教室市場の拡大した結果が、古今の日本の私的音楽教育だ。

そして今の中国が昔の日本にそっくりそのまま当てはまる。

私の周りの中国人は、音楽的英才教育を受けている人数が圧倒的に多いと言っていい。

そして彼らから聞いた音楽的英才教育に関連するストーリーがある。

それは、中国の高校受験と音楽スキルを持った受験者についてだ。

中国の一部では、高校入試にピアノを弾ける能力が受験者に備わっていると、合格のアドバンテージになることが多かったが、今はあまりにも多くの受験者がピアノを器用に弾くことができるため、ピアノを弾ける技能自体が、高校受験のアドバンテージにならなくなったのだとか。

悲しいことに音楽的英才教育がのちに彼らの音楽に対する興味を見出すかと言ったらそんなことはない。

私が思う世の中の悲しいことの一つとして、誰かの強制により、誰かが持っていた興味が破壊されてしまうことにある。

それは少なくとも私の今住んでいるアメリカにもあって、周りに「音楽やっているの?やっていたの?」と聞けば、やっていたと答える人は多く、しかし彼らのほとんどが、「高校時代のブラスバンドで、教師がスパルタだったから辞めた」「幼い頃にバイオリンを習っていたが、親が厳しくて辞めた」などなど、他者からの強制によって興味を破壊されたケースが目立つ。

では日本ではどうか?

これも、私の体験談から例を出してみよう。

私が5歳から通っていたピアノ教室は、やはり単調と言ってよいほどつまらないものであった

教則本のバイエルから学び出し、ブルグミュラー、ソナチネ、ハノンなどを1日2、3時間みっちりこなす。

練習中に耳にするのは、ピアノ本来の美しさを感じられるメロディアスな旋律というよりも機械的な音だけだった。

ピアノの発表会で、ショパンやモーツァルトは何回か弾いたことがあるけど、当時は弾くことに必死で、曲自体が美しいと感じたことはなかった

そして公的音楽教育がおこなわれる、小学校、中学校では今でも同じような音楽教育だと思うが、ピアノの伴奏付きの合唱に力を注いでいた記憶がある。

やはり体系的な統一性を重視する日本の文化においては、合唱は何かピッタリ当てはまるモノがある。

他にはリコーダーで、皆で同じ曲を演奏したりなど。

ここからわかる小学校、中学校の音楽シーンにおいて、やはり決定的に欠けているのが創造性である。

生徒に、自由に曲を作らせてみる、あるいは、生徒が美しい、楽しいと思う旋律を奏でさせる機会が全くといって良いほどない。

これでは、「本来あるべき音楽」の形に対して、興味が湧かなくなる。

前提として、音楽のやり方には正しさは存在しない。

しかし音楽は、人の創造から生まれる。

そして創造性を養わない限り、学生に音楽の楽しさを伝えることなんて無理なのではないか

さて、創造性の不足以外に、何が日本の音楽教育が良くないと私は思うのか。

それはエリート主義 (elitism) の輩出にある。

このエリート主義について説明すると、前述したように、日本では、高度経済成長期に一般的に、ミドルクラスからハイクラスにかけての世帯が、子どもに対して音楽的英才教育を施していた(現在は経済の低迷もあり、不明だが)。

だから、私の幼少期の体験談でもあったように、クラシックを基盤とした教え方から音楽、楽器や理論を学ぶケースがほとんどであったと考えられる。

そして、エリート主義はクラシックだけが崇高で絶対的で、音楽理論的にも完璧だと認める主義の人たちなんだけど、日本にはこの考えを持つ人間が結構多いような気がする。

エリート主義の人たちは、もちろんモダン音楽をも好んで聴くのだが、何故かクラシックというカテゴリーが絶対的なモノであるととらえている場合が多い。

この考えについては人々の好み、信条であるから、単純に間違っていると言い切ることはできない。

しかしこの主義の欠陥は、楽器のテクニック的な面でのうまさがあって初めて楽器を弾ける、すなわち音楽を楽しむ権利を得られると考えていることだ。

だから、人々に「楽器やってみない?」って聞いても「私は(幼い頃からやっている人に比べて)へただから」という即答が返ってくる。

だから結果的に、ある楽器に対して興味が湧いたとしても、このエリート主義の存在とそれの相対的比較によって、興味を閉ざしてしまう

ここで、ジーコ元監督の言う、楽しさを発見するということは、興味を高めるために非常に重要な要素であることが分かる

「本来あるべき音楽」は、単純に自己表現であるから、楽器がうまい、へたは問題じゃない。

自分が思っていることを音楽を通して伝えて、それが楽しければいいというだけのことだ。

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ライタープロフィール

ベーシスト

Sethproton

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