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ビートルズの実力に気づいたのは日本人が世界で初めてだったかもしれない話
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ビートルズの実力に気づいたのは日本人が世界で初めてだったかもしれない話

ビートルズに初めて目を付けたのは、後に彼らのマネージャーとなったブライアン・エプスタインだったというお話は以前にしました。

しかし、実は、彼よりも前にビートルズの実力に気づいた人物がいたかもしれない、しかもそれが日本人だった!?という驚きのお話です。

1. ビートルズの実力に気づいたのは日本人が世界で初めて?

2017年2月16日、日本の偉大な作曲家の船村徹さんが亡くなりました。

彼は、村田英雄の「王将」、北島三郎の「風雪ながれ旅」、鳥羽一郎の「兄弟船」、細川たかしの「矢切の渡し」など演歌の名曲を多数作曲しました。

また、内藤洋子の「白馬のルンナ」などのポップスも手掛けています。

しかし、その船村氏とビートルズにどんな関係があるのかと誰しも疑問に思いますよね?

だって、日本の歌謡曲とイギリスのロックなんてまるで畑違いだし、そもそも本場のイギリス人ですらなかなか気がつかなかった彼らの実力に、何で先に日本人が気づいたんだって。

しかも、船村氏がビートルズの実力に気づいたのは、何と彼らが1962年10月5日にプロデビューするより前だったというから驚きです!

2. 船村氏とビートルズとの出会い

船村氏は、1959年に劇場公開された東映のアニメ映画「少年猿飛佐助」の音楽を制作しました。

これがその映画の予告編です。

少年猿飛佐助 予告篇 – YouTube

何とこれ1959年制作ですよ?

日本のアニメは、もうこんなレベルにまで到達していたのかって驚きますね。

色彩も美しいし、絵の動きもスムースで時代を感じさせません。

この映画がアメリカのMGMによって「マジックボーイ」というタイトルで配給されました。

その際、日本語のセリフは英語に吹き替えられたのですが、音楽はそのままで放映されたようです。

後にアニメ歴史家のジェフ・ベックは、ヒットの要因が「東映のアニメ制作者が、ディズニースタイルで作成し、日本の伝統的な音楽を使ったことと多くのかわいい動物たちを登場させたことにあった」と語っています。

3. 船村氏、ビートルズと出会う

1960年、この映画は、ヴェネツィア国際映画祭の児童映画部門で聖マルコ獅子賞に輝くという快挙を成し遂げました。

そして、船村氏は映画音楽制作者として高い評価を受け、イギリスのEMIとフランスのパテ・マルコーニから招待を受け、ヨーロッパに滞在しました。

船村氏は、訪問したロンドンで複数のミュージシャンのオーディションに立ち会いました。その中にデビュー前のビートルズがおり、オーディションに参加したミュージシャンの中では唯一のバンドでした。

「どのミュージシャンが良かったか?」と尋ねられた船村氏は「あの汚い4人組が一番面白いのでは?」と答えたとご本人が大瀧詠一氏との対談の中で語っています。

「作家で聴く音楽」第十七回 特別企画 大瀧詠一vs船村徹

ご本人が28歳頃の話ですが、受賞という栄誉を受けての渡欧ですから記憶も鮮明に残っていたに違いありません。

後にビートルズがブレイクした時に「あの時見たバンドだ!」とすぐに気がついたというのですから、まず間違いないでしょう。

4. 船村氏の記憶

上記の船村氏のインタビューによれば、ビートルズと出会ったのは彼らがEMIでオーディションを受けた時と語っておられますが、その時に日本人が同席していたという記録はありません。

しかも、同氏はその時「あの汚い」とおっしゃっていました。

ということはビートルズの衣装はビートルズスーツではなく、黒の革ジャンだった可能性が高いといえます。

しかし、彼らがEMIでオーディションを受けた時は、マネージャーのブライアン・エプスタインの戦略で、すでにスタイリッシュなビートルズスーツを着用していました。

ですから、少なくとも見かけの上では「汚い」はずはありません。

また、ビートルズがEMIでオーディションを受けたのは1962年で、それ以前に受けた記録はありません。

また、規律に厳しいEMIが、何かの記念行事の一環ならともかく、重要な自社の新人発掘のオーディションでゲスト審査員を加えたとは考えにくいです。

そういう場合は新人開発担当者のみで審査したはずですから。

それと船村氏がヨーロッパを訪れた時期がはっきりしないのですが、遅くとも1960年か1961年です。

1960年に受賞しながら2年も遅れて招待されたとは考えにくいですから。

つまり、ビートルズがEMIでオーディションを受けるより前だったはずです。

すなわち、時期もずれているし見た目も違うし、さらにEMIの事情からしてこの可能性は低いと考えられます。

これらの事実から推測すると、船村氏がビートルズと出会ったのは、彼らがまだメジャーデビューする前だったのではないかということですね。

はなはだ失礼ながら、EMIで彼らを見たというのはご本人の記憶違いではないかと思います。

大瀧氏もこの時のことをもう少し掘り下げてインタビューしてくれてたら良かったんですがねえ~(残念)。

5. では、いつどこで出会ったのか?

では、船村氏がビートルズと出会ったのは、いつどこでだったんでしょうか?

リバプールに近いマンチェスターで、1959年にキャロル・リーヴァイスが主催した「サーチ・フォー・スター」というタレントの発掘を目的にしたオーディションがありました。

これが当時のポスターです。

ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンは、それに参加するためにバンド名をそれまでの「クオリーメン」から「ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグズ」と改名したんです。

誰でもこれに合格すればテレビに出演でき、スターになれる可能性があったのです。

ただ、これは時期的に早過ぎますね。

映画が日本国内で公開された時期であり、同氏が国際映画祭で受賞したのは翌年の1960年ですから。

また、彼らは、1960年にもラリー・バーンズが主催したオーディションを受けています。

このようにビートルズは、そういった類のオーディションには参加していたので、船村氏が出会ったとすれば、そのいずれかの可能性が高いです。

ただ、それがいつ、どのオーディションだったのかがもう1つはっきりしないんです。

どうやら同氏は、そのオーディションのゲスト審査員として参加したようです。

気になるのは、同氏が「他はみんなソロ歌手で、バンドは彼らだけだった」と語っている点です。

この辺りがヒントになりそうですね。

6. ビートルズの実力に世界で初めて気づいたのは日本人だった!

その辺りは置いておくとしても、船村氏がビートルズと出会ったこと、しかも、その頃、彼らがまだプロとしては駆け出しでまだブライアンとすら出会っていなかったこと、そして、船村氏が彼らの実力を見抜いたことは確実です。

彼らがキャバーン・クラブのレギュラーになり、ハンブルクに巡業に行った頃か、あるいはまだそれよりももう少し前かもしれません。

いずれにせよ、船村氏は、プロとしてはまだ駆け出しの頃のビートルズを見てその才能に気づいたということになります。

国内ですら認められていなかった彼らを、しかもまだメジャーデビューすらしていない時点で、日本人がいち早くその才能に気付いていたなんて、こんな興奮するエピソードはありませんよね?

ああ~、この事実を世界中の人に知ってもらいたい!

マーク・ルイソンというビートルズ研究の第一人者がいるんですが、さすがの彼も船村氏のことは知らないはずです。

彼にこのことを伝えたいですね。

探求心旺盛な彼のことですから、来日して調査するのではないでしょうか?

ライタープロフィール

和田晋司

ビートルズの熱狂的ファン

和田晋司

大阪府出身 ビートルズのファン歴ウン十年。

色んなものに手を出しましたが、唯一続いている趣味がこれです。

ビートルズの語り部として彼らの偉大さを後世に伝えていきたいと思っています。

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ

ウェブサイト:http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp

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