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ビートルズのスゴ腕マネージャーとの出会いエピソード
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ビートルズのスゴ腕マネージャーとの出会いエピソード

前回、下積み時代のビートルズについての記事を寄稿したところ、かなりの反響を呼んだようでありがとうございます。

引き続きデビューまでの彼らについてご紹介します。

きっかけは一人の青年

実力はついたとはいえ、メジャーになるためにはレコード会社と契約して、自分たちのレコードをリリースしなければなりません。

そのためには強力なプロモートが必要でしたが、ビートルズにはそんなコネがあるはずもありませんでしたし、彼ら自身、どうして良いのか方法すら分かりませんでした。

1961年10月28日、レイモンド・ジョーンズという青年がリバプールのNEMSレコード店を訪れ「ビートルズが出したレコードを買いたい」と店員に申し出たのです。

これが当時のレコード店です。

しかし、店員は、ビートルズのことを知らなかったので店長に尋ねました。

その店長の名はブライアン・エプスタインです。

ジョーンズは、キャバーン・クラブの常連客でほぼ毎日ランチタイムのショーにビートルズの演奏を聴きに来ていました。

そして、義兄からビートルズがドイツのハンブルクでレコードを出したという話を聞き、矢も盾もたまらず買いに行ったのです。

ただ、レコードを出したことは間違いないのですが、曲名までは分からなかったのでとりあえず行って聞いてみようと思ったのです。

確かに、ビートルズは、ハンブルク巡業の時にたまたまそこを訪れていたトニー・シェリダンという歌手と出会い、彼に実力を認められてバックバンドとして演奏してくれとオファーを受けたのです。

シェリダンといえば当時は売れっ子の歌手でしたから、ビートルズに断る理由などありません。

喜んで引き受けました。

ギャラは300マルクでした。

ただし、レコードのクレジットには「ザ・ビートルズ」ではなく「ザ・ビート・ブラザーズ」と印刷されたのです。

ドイツ語でビートルズとは「男性の局部」の俗語であるピーデルスという単語に発音が似ていたため、そのまま出すのはまずいというレコード会社の判断で名前を変更されたのです。

名前がクレジットされていないし、曲名もわからないので見つけることはできませんでした。

曲はスローバラードで始まりますが途中からアップテンポに変わり、これぞ正にロックンロールといった感じの今聴いてもイカした曲です。

1961年にドイツで発売され、シングルチャート5位を獲得するヒットになりました。

後に、ジョーンズは、当時キャバーンでDJをやっていたボブ・ウーラーから、その曲ならキャバーンでも演奏していると教えてもらいました。

ともかく、その青年が夢中になっているビートルズという名のバンド、しかも、それが目と鼻の先のキャバーンでレギュラーバンドとしてほぼ毎日出演していると聞き、ブライアンは興味をそそられ、行ってみることにしました。

なお、この話はビートルズの成功を神話化しようとしたブライアンの作り話だという説がその後広まりました。

そもそもそんな青年は実在しなかったと否定され、一時はそれが真相かとも思われました。

何しろ肝心の本人が一向に名乗りを挙げなかったからです。

しかし、50年近く経って当の本人がついに名乗り出たのです。

これが当時のレイモンド・ジョーンズの写真です。

彼の話は当時の客観的事実と符合しており、間違いないと判断されました。

そこで疑問が出たのが、なぜ長い間沈黙していたのかということです。

もっと早く名乗り出ていれば一躍「時の人」扱いされたのは間違いありませんから。

しかし、彼は、シャイな性格でマスコミに騒がれるのが嫌で名乗り出なかったのです。

ただ、事実と違ううわさが広まり、自分の存在も否定されるに至り、真実が闇に葬られることに我慢がならなくなり、2010年8月になってついに名乗り出ることにしたのです。

あれから長年月が過ぎもう名乗り出てもそんなに騒がれることもないだろうと判断したのでしょう。

ブライアン、マネージャーとなる

11月9日、ブライアンは、キャバーンを訪れました。

そして、ビートルズの演奏、ルックスを見て衝撃を受けました。

その聴いたこともない強烈なサウンド、ビート、見たこともない変なヘアスタイル、そして、何より周囲を圧倒するカリスマ性にたちまちとりつかれたのです。

これは当時の様子を再現した映画です。

なお、この映画では店員の方が詳しい知識を持っていたように描かれていますが、これはおそらく事実とは異なると思います。

何しろドイツでリリースされたレコードですし、いくら地元の有名バンドとはいえ、知人でもない限りはそんなに詳しい知識はなかったはずです。

実際、ジョーンズは、インタビューでレコードの名前は分からなかったが、ともかくビートルズがバックで演奏しているレコードだとブライアンに説明したと応えています。

ただ、ビートルズもブライアンもそっくりですし、キャバーン・クラブの雰囲気も忠実に再現しています。

彼は、レコード店の店長ではありましたが、たまたま選んだ商売が音楽であったというだけで音楽の素養はありませんでした。

しかし、そんな彼にもビートルズがただ者ではないということだけは理解できたのです。

そして、自分が彼らのマネージャーとなり、売れっ子のミュージシャンにしたいと思いました。

早速、彼は、当時ビートルズのマネージャーをしていたアラン・ウィリアムズにマネージャーを引き受けたいと申し出たのです。

タイミングの良いことに、その頃、ビートルズと彼はハンブルク巡業の手数料の支払いを巡ってもめていました。

ビートルズは、ウィリアムズの要求する額が高いと主張して支払いを拒否していたのです。

それで、ブライアンがそれを代わりに支払うことでマネージャーの地位を譲り受けました。

金額はたったの9ポンドです。

後にウィリアムズは、「たった9ポンドでビートルズを売り渡した男」というありがたくないレッテルを張られてしまうことになるのですが、もちろん、この時はそんなことを知る由もありません。

彼は、ブライアンに「あいつらは金に汚いから気を付けろ」とアドバイスしました。

1962年1月24日にビートルズとブライアンは、正式にマネジメント契約を結びました。

ブライアンの孤軍奮闘

ブライアンはマネージャーとして契約したのですが、その後の彼のとった行動は、もはやマネージャーとしての域を超えていました。

完全に芸能事務所に所属するタレントの営業担当のようになっていたのです。

彼は、積極的にロンドン中のレコード会社を回り、契約してほしいと依頼したのです。

しかし、どこの会社も冷たい扱いでした。

何しろ名もないリバプールのローカルバンドでしたから、そんなバンドが売れるわけがないと誰しも思ったでしょう。

余りにブライアンがビートルズにのめり込んでいたので、周囲の人々からはもういい加減そんな売れる見込みもないバンドに関わるのは止めろとまで忠告されていたのですが、彼は一切耳を貸しませんでした。

彼は、スターにはイメージが大切だとイメージ戦略を展開しました。

これも今では当たり前ですが、こういうことを思い付くところが彼の非凡さを表しています。

リーゼントに黒づくめの革ジャンとブーツというスタイルでは、ロックンローラー=不良というイメージがつきまとい、幅広くファンを獲得するには支障があったのです。

そこで、ブライアンは、ファン層を拡大するため彼らのステージ衣装をスーツに換えることにしたのです。

最初は彼らも抵抗しましたが、売れるためには仕方ないと受け入れました。

すでにハンブルク時代にヘアスタイルはリーゼントをやめて、モップトップ、つまり掃除に使うモップのようなものに変えていたので、後は衣装だけでした。

もっとも、ピート・ベストだけは相変わらずリーゼントを止めませんでした。

それと、彼らは演奏中もタバコを吸ったり、観客が気に入らないと客席に背を向けて演奏を途中で止めたりとステージ上でのマナーにも問題がありましたが、それも改めさせ、1曲が終わるごとに観客に向かって深々とお辞儀するようにさせたのです。

この戦略は、ビートルズを誰からも愛されるアイドルに仕立て上げるという意味で大成功でした。

後は、とにかくレコード会社と契約して彼らのレコードデビューを果たすことです。

ブライアンの孤軍奮闘は続きましたが、ついにそれが実を結ぶ日が訪れました。


ライタープロフィール

和田晋司

ビートルズの熱狂的ファン

和田晋司

大阪府出身 ビートルズのファン歴ウン十年。

色んなものに手を出しましたが、唯一続いている趣味がこれです。

ビートルズの語り部として彼らの偉大さを後世に伝えていきたいと思っています。

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ

ウェブサイト:http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp

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