スペシャルインタビュー ゆーきゃん 2/5|スタジオラグ

スペシャルインタビュー
ゆーきゃん | スタジオラグ

インディーのマインドでもたくさんの人に聴いてもらえるんだって事が何となく分かってきて、

そういったオーガナイザーとしても、またアーティストとしても精力的に活動してらっしゃるゆーきゃんさんですが、現在の活動のきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
自分で曲を作って歌ったりし始めたのが、14歳の時なんですね。
え、そんなに早くからやってたんですか!?自分で作るとか…
はい、自分で作って。まぁ、詩を書くのが好きだったんで詩を書いて、よく分からないままコードを適当に付けて歌うって事をしてたんですけど…でも、その歌は人に聴かせなかったんですよ。自分の中だけで完結してしまって…音源に残したりもしなくって。いまも実家に帰って引き出しを開けると、コード譜の付いた詩のノートみたいなのがいっぱい出てくるんです。
なんか、すごくイメージが湧いて来ますねぇ。
でも、もうだいぶ忘れてます(笑)どういうメロディだったかとかも忘れていますね。
何故、聴かせなかったのですか?
いや、、まぁ自信がなかったんです(笑)
なんというか、曲を作ろうと意気込んでという感じじゃなくて、フっと作ってたって感じでしょうか?
そうですね、なんかこう…一通り書いて満足するんですよ。自分の思ってる事を文字なりメロディなりに変えた時に満足をして。それで大学生まではもっぱらリスナーだったんですけど、大学で軽音サークルに入ったことで面白い友達にたくさん出会ったんです。で、最初はコピーバンドから入って…『オアシス』のコピーとかしてました。
おぉー!それはパートとしては?
リアムです。(後ろ手を組んで)こうやって歌ってました(笑)
(笑)
その時代の空気というか ― 例えば『エリオット・スミス』であるとか、『P・J・ハーヴェイ』であるとか、日本だったら『中村一義』とか『くるり』とか ― 自分の持っている感覚で表現をして、それを人に聴いてもらうという事が当たり前だった時代であったと思うんですね。
90年代後半から2000年代頭くらいまでの、なんというか、商業臭さがあまり無いような時代ですね。
そうですね。なんというか、インディーのマインドでもたくさんの人に聴いてもらえるんだって事が何となく分かってきて、じゃあ自分もやってみたいなって思いまして。その頃ちょうどサークル活動に飽きてきて、京都のライブハウスによく遊びに行くようになっていたんですね。それまでは、例えばライブを見に行くとなると「クアトロ」とか「ゼップ」とか「大阪城ホール」とか、自分とは関係無い世界のプロのミュージシャンがやっているものを見に行くという感覚だったものが、「拾得」に行ったりするとサラリーマンが仕事終わりに来て、リハ無しで背広のまま弾いたりするじゃないですか。あういうのを普通に見るようになって、こういう表現の仕方もあるんだって分かると、自分もやってみたくなったんですね。それで、1999年の年末くらいに初めてライブハウスで ― 拾得だったと思います ― 舞台で歌いました。それがきっかけですね。

自分自身が影響力を持って、色んな事を仕掛けていきたかった

なるほど、その後の展開としては?
う~ん、、うだつの上がらない時期が何年も何年も続いたっていう記憶がありますね(笑)
(笑)
2000年代のいわゆる“京都ブーム”的なもの、音楽業界の中で京都のバンドがすごくもてはやされた時期 ― 『くるり』『キセル』『つじあやの』『ママスタジヲ』『YOGURT-pooh』に『CHAINS』といった、京都のバンドが軒並みデビューするっていう時期があって、一通り、そのとき業界的にも「面白い」と言われていたであろう上澄みのバンド達が引っこ抜かれた後は、パタっと京都は出尽くしたみたいな空気になったんですね。その頃に「僕らも頑張ればあそこに行けるかもしれない」と思ってた人達が突然、なんというか梯子を外されたというか…そういう感じがして。それで街の盛り上がりも消えた気がしたんですね。それに苛立ったというか、なんとかしなきゃと思って始めたのが『ボロフェスタ』というDIYのフェスだったんです。
自分達で奮起して活気を取り戻そうとしたわけですね。
まぁ、実際はなんともならなかったというか…例えば1年目のヘッドライナーに呼んだのが『クラムボン』だったんですが、彼らと対バンすれば明るい未来が開けるだろうとぼんやり思っていたのがそもそもの勘違いで、ボロフェスタの後にやったライブを見に来てくれるお客さんが劇的に増えたという訳でも無く、レコード会社からいい話が来るという訳でも無く…そういう時期が3年くらい続きました。元々、弾き語りでやってたんで地味だったというか、そういうのも有ったりして(笑)また僕自身のモードも、ちょうどその頃、大阪の「難波ベアーズ」とか、関西アンダーグラウンドの音楽にハマっていて、だんだん内側へ内側へとベクトルが向かっている時期でもあったんですよ。ボロフェスタというイベントは歳を重ねるごとにどんどん大きくなっていきましたが、ミュージシャンとしては曲を書き、自主制作でCDRを作って、それをライブ会場で売りながら、売れないことを噛みしめる(笑)という日々でした。
特にメジャー指向であるとか、そういうのではなく自身の音楽を表現できれば、という感じだったんでしょうか?
そうだったと思います。ありがたいことにだんだん色んな場所に呼ばれるようになって、ミュージシャンの知り合いもたくさん増えて、活動の幅は少しづつ広がっていったんですが。2004年に出した1st アルバムでは、『スキマスイッチ』の真太郎君がピアノを弾いてくれたりしています。でも、ギャラを取ったりファンが付いたり、そんなことはなかなかありませんでしたね。そうしたいともあまり思わなかった。― すごく覚えてるんですが、神戸のライブハウスに呼ばれてた時に、お客さんが0人だった事があったんです。6バンドくらい出て、最初から最後まで出演者しかいないみたいな。主催者の言い分としては、“『ゆーきゃん』が来るからちょっとはお客さんが入るかと思ったのに”って(笑)多少音楽に詳しい人は僕を知っているけど、普通のお客さんは知らないという時期がずっと続いて、そんな場面に直面するたびに、もっと評価されたいという想いもあったとは思うんですけど、それよりも、ライブをする度に感じていたのは「本当のゆーきゃんは、もっと良いはず」だという口惜しさでした。なんというか一度も満足のできるライブをしたことがないというか、出来るはずなのに出来ないから今こんな体たらくなんだって思いつつ、3・4年過ごしたような気がしますね。
ライブでの動員も増え、盛り上げる事もできるだろうというヴィジョン的なものがあったんですね。
そうですね。なんていうんだろう、きっと自分自身が影響力を持って、色んな事を仕掛けていきたかったんですよ。イベントであるとか、コンピレーションのCDを作るとか、お店を巻き込んで何かをするとか、そういうことをずっとやりたかったんですけど、でもそんなことをできる力も人気も無かったんで、それで悔しい思いをずっとしてました。